【レポートup!】第32回「信長?秀吉vs紀州惣国一揆 -仮面の忍者赤影から戦国ヤタガラス雑賀衆へ-」
公開日 2011年05月18日
日時: 平成23年5月18日(水)19:00~20:30
話題提供者: 海津 一朗(教育学部教授)
中世の紀州は「惣国」「国一揆」と呼ばれる武装独立の地域自治がおこなわれており、織田信長?豊臣秀吉の統一権力に最後まで抵抗した。
16世紀のヨーロッパ人の作った世界地図には、紀州は「盗賊島(国)とかかれている。
知られざる中世惣国の実像について、指導者鈴木孫一(雑賀孫一)と「雑賀踊り」に焦点をあてて考えたい。
『仮面の忍者赤影』で怪しげな忍者集団として描かれた紀州惣国衆は、『戦国ヤタガラス』ではイエズス会のアジア侵略の野望に立ち向かう英雄となっている。その実像とはいかなるものか。
そして天正13年、紀州惣国はついに泉南地方の民衆を下郡一揆(和泉惣国)として組織して、秀吉と全面戦争に及んだ。はたしてその運命はいかに。
アジアの「盗賊島」の消長をダイナミックに語る。
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当日のレポート
<概要>
5月のサロンは、「仮面の忍者赤影」や「戦国ヤタガラス」に描かれた雑賀衆の実像や紀州惣国一揆と豊臣秀吉との攻防を通して、日本の歴史が中世から近世に移り変わる大きな分かれ目の瞬間に何が起こったのかを考証していくものでした。
中世の紀州では「惣国一揆」と呼ばれる地域自治が行われていました。
それは、神仏の力を重んじる地侍と百姓が鉄砲と海軍力によって武装独立を実現した共和国であり、それゆえ天下統一を目指す信長?秀吉にとっては抵抗勢力として疎まれる存在であったのです。
天正13年(1585年)、岸和田城を本拠地として迫り来る秀吉に対して、紀州惣国は泉南地方の民衆を和泉惣国として組織して全面戦争に及びました。
しかし、抵抗もむなしく、秀吉の空前絶後の太田城水攻めの前に、あえなく降伏を余儀なくされたのです。
こうして、中世自治のシンボル=紀州惣国一揆は終焉を迎えましたが、太田城水攻めとは、時代が中世から近世へ、一揆の地域自治から天下人の天下統一へと移り変わる、歴史の大きな節目となる事件であったのです。
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<ひとこと???>
和歌山や岸和田の地で日本史の転換を象徴するような攻防が繰り広げられていたことに興味を掻き立てられた一方で、秀吉の水攻めの前に滅んでいった惣国一揆に悲哀を感じずにはいられない内容でした。
また、水攻め堤防の学術調査が明らかにしてきた事実の重みからは、郷土の遺跡保存活動の大切さや、専門領域を越えて歴史の真実に迫る学問連携の可能性について教えられました。
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